ダンテの森    
17 Feb 2015   02:04:51 pm
エネルギー需要予測
エネルギー白書から読めるのは原発維持への固い決意だけ
ブログ管理人

 経産省と資源エネルギー庁が2030年のエネルギー需給見通しを発表している。2013年度のエネルギー需給実績は2010年との比較で、電力が-7.7%、石油が-5.4%と大きく減少し、都市ガスが-1.2%、石炭が-1.0%と減少しエネルギー全体で5%減少している。

 日本全体のエネルギー消費は資源エネルギー庁の2014年11月発表の速報を見ると1990年に13,889(単位はPJ)であったものが、2002年に16,006とピークを迎えその後景気の後退に伴って2009年まで順調に減少し、2010年に一度上がったもののその後も減少し続けて2013年には14,227になっている。全くエネルギー政策に手を加える事無く自然に任せるだけでも、生産活動の低下はエネルギー消費を減らしていることが分かる。興味深いのは、欧州では30%になろうとしている再生可能エネルギーが、日本では0.3%で張り付いていることである。政策的に再生可能エネルギーの増加に制限が掛けられているとしか思えず、これが自由経済の国かと目を疑ってしまう。


 経産省が発表した2030年へ向けてのエネルギー見通しと言う資料が有る。これには、世界のエネルギー動向のみが書かれておりその力点は、人口増加は続き2030年には世界人口は80億人となること、東アジアでの発展が著しくエネルギー源としての原子力発電所の設置に力点が置かれている。これは、日本の原子力発電所を東アジア諸国に売りたいと言うモチベーションが感じられる。その為には国内の原発を再稼働させる事が、経産省の狙いである。

経産省のエネルギー見通しURL:http://www.meti.go.jp/report/downloadfiles/g41004b02j.pdf

 次に資源エネルギー庁の出しているエネルギー白書から、国内の見通し(2030年のエネルギー需給展望)を読んだ。

 最初に人口減少について述べ2006年の127百万に対し、2030年には117百万と約8%の人口減となり、高齢化率は2000年の17%から2030年には30%になると予測している。つまり、生産人口は単純計算でも8+13=21%ポイント少なくなる。その分経済活動は低下すると考えられる。

 しかしエネルギー消費量は2000年の原油換算の一次エネルギー量で413(百万キロリットル、単位以下同じ)であるのが、省エネが最も進んだと予測するケースで377としこれは30年間で8.7%の削減にしかならない。その上、そんなに省エネは進まないと予測したレファレンスケースと言う予測値が作られそれは2030年で425と2000年に比べ3%増加している。人口が1割減り、生産人口が3割減っても日本はエネルギー消費は増え続けるとの予測を資源エネルギー庁は立てている。


 電力エネルギーの推移になると、2030年には原子力の割合が38%と最大となり、再生可能エネルギーなどは2000年と変わらない1%のままで、政府・資源エネルギー庁は再生可能エネルギーを、絶対に日本には根付かせてはならないとの鬼気迫るまでの決意が感じられる。欧州では30%になろうとしている再生可能エネルギーは、日本では2000年以降0.3%から変化していないし、2030年の予測でも1%でしかない。本文の中で「再生可能エネルギーは10%になる可能性がある」と記述されているが、グラフには反映されておらず政府は固い決意で再生可能エネルギーがはびこらないような政策を取る用意があるのだと見て取れる。ここにも電力業界と政界と官庁の強い結託が表れている。

資源エネルギー庁:エネルギー白書(2014年11月)
http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2005html/1-1-1.html

 当ブログでは口が酸っぱくなるほど書いているが、日本には余りにも電力を無駄に使うものが多すぎる。世界には無いが日本には600万台も有る野立の飲料水の自動販売機は、原発2基分の電力を消費している。便座ヒーターは1億台でやはり原発1.5基分を消費している。欧州では全館暖房の為にトイレが寒いと言うことはないので、便座ヒーターは無い。日本の道路照明が多い事は、宇宙ステーションから見た夜景を欧州と比べると分かる。

 省エネと言っても、何も暖房を止めて家の中で厚着をして我慢しろと言うのではない。日本の家屋に二重サッシなどで断熱性能を上げて、熱交換式の換気扇を使って強制換気するように改築するだけで、暖冷房の為のエネルギー消費は即座に60~80%カットでき、その上全館暖冷房となり、便座ヒーターも必要なくなる。建築物は全エネルギーの40%を消費しているので、これを日本中に普及させることで、24~32%のエネルギー消費を削減でき、原発の再稼働はおろか原油の輸入量も大幅に下げる事ができる。但し、電力会社は規模の大幅縮小を余儀なくされることになる。世界的に見て電力は小規模な分散型の供給システムか、自給型に推移して行き巨大な電力会社は消えゆく運命に有る。日本の電力会社だけが例外となる事はないだろう。
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14 Feb 2015   02:59:28 pm
低エネルギー改築
再生可能エネルギー(太陽光パネル)よりも低エネルギー化改築を
ブログ管理人

 ある地方銀行がその支店に太陽光パネルを設置して自社で使用する電力を自給し、電力会社から購入する電力を少なくすることで地球温暖化ガスの排出量を削減して環境悪化の緩和に貢献するとしている。

 同じ事業費を掛けて、支店の建物を外断熱と断熱窓枠と多層ガラス窓にして断熱構造にして、熱交換器を使った強制換気にすれば冷暖房に使用する電力量が最低でも70%は削減される。これを低エネルギー化改築と言い、欧州における今後の建築ビジネスの主流になるものと言われている。太陽光パネルの設置による発電と低エネルギー化改築による省エネの費用対効果を比較した資料は無い為に、ブログ管理人の今後の調査課題となるものであるが、これまでの知見から言って低エネルギー化改築の方が効果は相当大きいものと思われる。

 太陽光パネルの方は、消費する電力を低減することはせずに新たに太陽電池から得られる太陽エネルギーからの電力を、これまで電力会社が化石燃料を燃やして発電していた電力に代えて使う。つまりエネルギーの消費量は減らさない。

 一方、低エネルギー化改築は消費電力そのものを減らすものである。今、冷暖房エネルギー削減の対策を行うことを述べたが、省エネできるものはこの他照明、給湯、その他の電気製品が有りこれらを順次進める事で、欧州の国々が2020年には新築建築基準に導入しようとしているエネルギーゼロ建築に近付いてくる。ドイツの低エネルギー建築基準であるパッシブハウスでは一般的に言って従来建築の1/10のエネルギー消費となる。

 日本は今「経済成長をもう一度」と政府先頭にやっきとなっている。どういうわけか知らぬが経済成長と省エネは、どうも折り合いが悪いようで経済成長と省エネの同時進行はできないと考えている人が多く、太陽光パネルを新たに増設してエネルギー源を増やすと言うのは、経済的にプラスに見えるため受け入れられやすいらしい。そして低エネルギー改築の方は、ビルの断熱効果が大きくなりこれまで4台有ったエアコンを1台に減らすことは経済の「マイナス」に見えてしまうようである。

 現代の世の中では、増大するのは良い事で、縮小するのはどうも悪い事らしい。1970年代に「大きい事は良い事だ」と歌うコマーシャルが流行った時代に何としても戻りたいと思っているのが、安倍政権であり、時代を戻すために一生懸命努力をしている。「ジャパン・イズ・バック」と言う第二次安倍政権発足時に国際社会に向けて出したアピールは、日本経済を1970年代の勢いに戻すと言うことで経済成長一辺倒である。しかし、先進諸国では徐々にではあるが、経済成長一辺倒から脱皮しようとする兆しが見えてきている。

 欧州では、不動産には賃貸、販売に関わらず必ずその不動産がどれだけのエネルギー消費をするのかを、公的機関が証明した「エネルギーパス」が必要である。これなしには取引はできない。これを見れば契約しようとしている建物や部屋が、どの位のエネルギー効率であるのかが一目で分かる。年間の電気代、ガス代、水道代も分かる。これは「マイナス」に見えるものを「プラス」に置き換える仕掛けと言えるかも知れない。日本では、このエネルギーパスを普及させようとする民間団体である一般社団法人日本エネルギーパス協会が頑張っている。

日本エネルギーパス協会のURL: http://www.energy-pass.jp/

 当ブログでは何度か書いたが、コマツの新粟津工場が昨年5月に完成したが同工場は徹底した省エネ設計を行った為に、従来の工場の1/10のエネルギーしか消費しない。全国の会社はこの工場に習うべきである。

 建築物(建築物とは住宅、集合住宅、オフィスビル、工場、店舗、公共建築など全ての建築物を含む)が消費するエネルギーは日本の全エネルギーの40%である。これをすべて低エネルギー化する事で1/10のエネルギー消費量を達成する事ができれば、それだけで日本のエネルギー消費は36%少なくなる。311前の原発が54基全て稼働していた時の原発が受け持っていた割合は25%であるので、建築物の低エネルギー化を達成するだけで、原発を全て直ちに廃炉にしても、CO2は10%削減ができる。実は、これこそ日本の電力業界が最も恐れる事態なのである。世界でトップレベルの電力料金と地域割独占体制で暴利を貪ることを欲しいままにしてきた彼らにとっての理想のシステムの崩壊を意味するからである。
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07 Feb 2015   12:15:09 pm
東京の環境意識は最低
東京、ニューヨーク、ロンドン、上海、ムンバイで意識調査を実施――みずほ情報総研

 みずほ情報総研株式会社、環境エネルギー第1部は2015年1月世界5都市対象「地球温暖化に関する意識調査」を発表した。その調査結果は、日頃当ブログが主張している日本政府とマスコミと教育界が一体となって行っている、国民から環境問題意識を薄めるキャンペーンの結果を表すものとなっているので紹介する。

 この調査の目的として同研究所は次のように述べている。

 地球温暖化の影響は、世界中で徐々に現れ始めていることが指摘されており、地球温暖化に対する市民の態度は徐々に変化してきているものと考えられる。ところが、地球温暖化やその影響、地球温暖化対策について、世界の市民がどのように捉えているかを調査した事例は少ないのが現状である。
地球温暖化対策に関しては、米中が積極的に取組みを進める意向を表明するなど、世界的には取組強化の動きが加速している。ところが、日本では地球温暖化対策の推進に関する議論は停滞気味である。
このような動きの中、欧米や新興国の市民が地球温暖化をどのように捉えているかを把握するとともに、日本と世界を比較することを通じて、日本における地球温暖化対策の推進に向けた態度形成を改めて図っていく必要がある。

 今回同研究所では、世界各国の市民を対象にアンケート調査を実施し、地球温暖化やその影響、対策に関する各国市民の考え方を把握し、彼らの考え方や行動に変化をもたらすために効果的な方法を探ろうとしている。

 調査方法は、①東京、②ニューヨーク、③ロンドン、④上海、⑤ムンバイに住む20歳以上の男女に対し2014年10月01日~17日の間にインターネットリサーチによるアンケート調査により各都市318人ずつ回収した。

結果:

(1) 地球温暖化の捉え方 ⇒ いずれの都市でも「実際に起きている」と考える人が大半であり、5都市のいずれにおいても、回答者の大多数が地球温暖化が実際に起きている、その原因は人類の活動にあると考えていが、東京では、そのように考えている人の割合が5つの都市の中で最も低い。
(2) 地球温暖化の影響の捉え方 ⇒ 「影響に備えている」人の割合は、東京が最低であった。地球温暖化の影響として不安に感じるものとして、東京を除く4つの都市では「海面上昇による浸水の増加」を選択したが、東京では回答が複数の項目に散らばっている。地球温暖化の影響に対する備えについて、東京では、「考えている」人の割合が5つの都市の中では顕著に低い。

(3) 地球温暖化対策に対する考え方は、いずれの都市でも適応よりも 緩和が重要視されており5都市のいずれにおいても、回答者の大多数が、緩和および適応に関する取り組みについて、自らが取り組むべきこと、取り組むことができる、と考えている。また、対象5都市のいずれにおいても、適応策よりも緩和策の方が重要と考える人が多い。
(4) 地球温暖化に関する情報源 ⇒ 国際機関や研究者が信頼されている。
(5) IPCC第5次評価報告書の認知度は、東京が5都市中最低であった。

今回の調査から言える事:
 昨今、台風やハリケーンなどの自然災害、熱中症や熱帯性感染症などの健康リスクに対する不安が世界的に高まっている。地球温暖化が進行すれば、こうしたリスクが世界の広い範囲で高まる可能性が指摘されており、地球温暖化の影響に関する情報ニーズは世界的にも高いものと考えられる。
今回の調査を通じて、新興国と先進国には地球温暖化に対する意識違いはみとめられなかった。特出するのは日本(東京)の結果を見ると、地球温暖化に対する意識や、影響に対する備えなどは、今回調査を行った地域の中で最も
低い水準であることが明らかとなったことである。

報告書の全文は次のURLで見ることができる。
http://www.mizuho-ir.co.jp/publication/report/2015/pdf/ondanka0127.pdf

 5番目の設問のIPCC第5次評価報告書の認知度に至っては、これが発表されたのが2014年4月にお隣の横浜市で開催されたIPCC第38回総会であったのに関わらず東京都民の意識が低いのは、日本政府とマスコミの対策が成功している証拠である。

 何が何でも経済成長が最優先で、環境対策と経済成長は相反するものと信ずる安倍政権は、今後も国際社会の進む方向とは関係なく環境問題には背を向け続けることに変わりはないだろう。
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03 Feb 2015   03:09:08 pm
電気温水給湯器
 環境NGOの気候ネット(Kikonet.org)が、R32と言う代替フロンを熱媒にした給湯器を新発売したことに対する反対声明を出しているので紹介する。欧州ではすでにタンクにお湯を貯める方式のタンク式の給湯器は、長い屋内配管でロスする熱量が大きい事から販売を禁止している国が多く、給湯は小型の電気かガスの瞬間湯沸かしユニットを、風呂、洗面所、台所など各所に最適容量のものを設置するのが最も効率が良い事がわかっている。日本では電力消費が減る夜間に、発電量を調整する事ができない原子力発電所から出る電力を消費させるために、電力業界と政府が夜間電力消費を促進する為に深夜電力割引料金制度を導入して推進しているもので、タンク式給湯器そのものが環境に悪いと言うこと知った上でこの声明をお読みいただきたい。

【声明】ダイキン、コロナ及びリンナイのR32ヒートポンプ給湯器の発表について~温室効果ガス排出増加に加担へ~(2015/1/30)

ダイキン、コロナ及びリンナイのR32ヒートポンプ給湯器の発表について
~温室効果ガス排出増加に加担へ~【抗議声明】

2015年1月30日
気候ネットワーク

 昨年、冷凍空調設備からのフロン回収破壊を義務づける「フロン回収破壊法」の大改正が行なわれ、今年4月から「フロン類の使用の合理化及び管理の適正化に関する法律(フロン排出抑止法)」が全面施行されることになった。この法律では、地球温暖化係数(GWP)の高いフロン製造段階の生産規制、使用時漏洩防止管理、廃棄時回収破壊などを制度化したもので、将来的にフロンの廃絶を目指している。気候変動問題が極めて深刻化する中、温室効果ガスを大幅に削減し、フロンについては全廃を目指すという方向性が日本でも初めてうちだされた。

 しかし今年1月26日、ダイキン工業とコロナの2社は、R32ヒートポンプ給湯器を「ネオキュート」との名称で発売すると発表した。またこれに先がけてリンナイもR32給湯器を発売すると発表している。今回発表されたR32冷媒はGWPが20年値で2430、100年値で677とGWPが非常に高い温室効果ガスである。また、もともとヒートポンプ給湯器については、CO2冷媒の方がフロンよりも効率が高いことから採用されていたものであり、省エネ効果が高いわけでもない。現在、「2℃目標」を達成するために温室効果ガスを大幅かつ大胆に減らすことが求められ、フロン類については将来的に廃絶が目指されている。R32冷媒をヒートポンプ給湯器で使用することは、明らかに時代に逆行するものである。

ヒートポンプ給湯器はこれまで、国内30近くのメーカーが自然冷媒であるCO2を冷媒とした「エコキュート」を発売しており、自然冷媒の分野で日本が世界の中でも先行しているため、国際的にも注目を集めている技術である。昨年1月にダイキン工業とコロナの二社がR32ヒートポンプ給湯器を展示会で発表した後に、気候ネットワークをはじめ環境NGOや消費者団体が共同で発売を止めるよう求めてきた。こうした市民の声を無視し、発売に踏み切る発表をしたことは大変遺憾である。

また、ダイキン工業はフロンメーカーとして「HFCの責任ある使用」のために冷媒管理の徹底を図るとしてR32の利用拡大を進めているが、現状では様々なフロン使用機器で回収は進んでいない。その上、これまでフロン類を使っておらず、機器のリサイクルや冷媒回収のしくみすらない給湯器でもフロン類の利用を拡大させることは、「HFCの責任ある使用」からはほど遠い。

なお、「フロン排出抑止法」が全面施行される直前にこのような事態が起きていることは、法律においてフロンの廃絶を目指しながらも、政省令でフロン利用の拡大を止めることができない法律上の不備があることも指摘しておきたい。


原文URL: http://www.kikonet.org/info/press-release/2015-01-30/r32_heatpump/
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01 Feb 2015   07:31:47 pm
荒れ野の40年
統一ドイツの初代大統領、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが1月31日に亡くなった。
人類の大きな損失である。衷心よりご冥福を祈る。大統領は1985年に歴史的で感動的な演説をしているので、少し長文ではあるが全文を紹介して故人を偲びたい。 ――ブログ管理人

『荒れ野の40年』 (1985)    
ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker)



 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。

 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。

 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。

 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。

 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。

 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。

 銃殺された人質を思い浮かべます。

 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。

 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。

 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。

 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。

 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、
飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、
 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、
迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆
――こうした悲嘆の山並みです。

 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。

 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。

 彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。

 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。

 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。

 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。

 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。

 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。

 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。

 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。

 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。

 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。

 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。

 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。

 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。

 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。

 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。

 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。

 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。

 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。

 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。

 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。

 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。

 いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。

      

 戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。

 ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。

 戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。

 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。

 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。

 ――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。

 ――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。

 ――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。

 ――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。

 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。

 東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。

 人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。

 当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。

 われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。

 われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。

 人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

 若い人たちにお願いしたい。

 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人

 これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。

 今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。

原文URL: http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html

 
カテゴリー : 他メディアより | Posted By : dantesforest |
 
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