1月の半ばにドイツに行ってきた。目的は2つあり、一つはシーメンス時代からの友人が70歳の誕生日を祝うので来ないかとの誘いに応じたことと、一昨年以来会っていない環境学の師ヴァイツゼッカー博士と会う為である。同い年の友人は私が辞めたのと同じ頃1990年頃にシーメンスを辞めてミュンヘン工科大の教授をしていた。65歳で退官してこれも私と同じく年金生活に入っている。
彼の家はミュンヘン市の南8kmに位置する人口1万4千人ほどの小さな町(ゲマインデ)にある。郊外電車S-Bahnでミュンヘンの中心から20分ほどの距離のミュンヘンの典型的なベッドタウンである。日本のベッドタウンは一戸建てと中層マンションが主であるがドイツではテラスハウス式の分譲住宅が普通である。私の友人の家も御多分に漏れずテラスハウスである。地階、一階、二階、屋根裏部屋の四層で隣家とは壁で繋がっており、北側には小さな前庭があり南側にはかなり広い裏庭がある。隣の庭とは低い植え込みが有る程度で行き来も可能である。
この家の北側は道路でその向こうはサッカー場が6面は取れそうな広さの牧草地が広がっていてそれが彼の自慢であった。その牧草地の向こう側の端にいくつかの建築物が出来ていた。2年前には無かったのものであるので聞いて見るとシリア難民の為に建てた集合住宅だと言う。この人口1万4千人の町で500人の難民を受け入れたのだそうだ。最初は街の体育館と空気で膨らます巨大なテントに収容していたが、街の議会は住宅を作る事を決定した。初めの案では将来公共サービスに供する事の出来る恒久建築をと言う意見も有ったが、撤去が簡単な木造建築となった。(写真)
ドイツでは難民保護施設のことをアジールと呼んでいる。この言葉を辞書で引くとアジール【(ドイツ)Asyl】とは。犯罪人や奴隷・債務者などが、報復などの制裁から保護を受けられるように慣習的に認められた場所。中世ヨーロッパにおける教会・聖地・自治都市などが代表的な例で、法体系の整備とともに消滅した。聖庇。と出ている。ギリシャ語の不可侵asylonに由来し英語のサンクチュアリsanctuaryと同議語のようである。ドイツの新聞を読んでいてもドイツ語の難民にあたる言葉フリュフトリンゲFluchtlingeと言う語はあまり見かけない。その代わりにAsylが多用されている。この辺りにもドイツ人の気持ちが表れているような気がする。困った人は助けられる権利があるとするのがドイツ人の考え方のようである。
この集合住宅ができることに対して町民からは全く反対は無かったと言う。住宅ができたときには町民がこぞって使わなくなった家具や鍋や食器を持って行ったそうで、私の友人は余っていたベッドとソファーと自転車2台を持っていたと語っていた。町のホームページを見ると週に1〜2回は難民と町民が一緒に行う行事がでている。コンサート、バレーボール大会、シリア映画の上映会はドイツ語での説明付きなどである。ホームページには難民の為のサイトが用意されるなど親切が溢れている。メルケル首相が「困っている人を救うのは当たり前のこと」と100万人の難民を受け入れた時にドイツ国民は自分たちが受け入れる事で、他のEU諸国もこぞって受け入れるに違いないと思ったそうだが、実際にはそうならず、ドイツ以外に受け入れを行ったのはオーストリアとデンマーク、スエーデンなどだけで他の国は拒否をした。しかし、今でもメルケル首相は「困った人を助ける事はできる。」と言っている。
トランプ大統領はヨーロッパが難民を受け入れたために、今ヨーロッパは大変なことになっていると何度も言っているが、ドイツではそんなことは微塵も感じることはできなかった。ドイツには全国に1万4千もの町(ゲマインデ)が有るが、そのどこを訪れてもアジ―ルが存在するらしく、町の人と難民が交流をしていると言う。私が見たどの町のホームページにも難民のページが有った。
ドイツ滞在中に読んだ新聞記事に「IMFの試算によると難民を受け入れた国では2020年の経済成長インデックスが0.5〜1.2%難民の経済活動により増加する予想である」とあった。これは以前からドイツの経済研究所が主張しドイツのメディアが報道していたものと同じである。1960年代、当時の西ドイツは分断されたための労働力不足を補う為に250万人もの外国人労働者(Gastarbeiter)をトルコ、ギリシャ、ユーゴスラビア、イタリア、スペインなどから受け入れることで経済復興を成し遂げた歴史がある。その経験が有る事も難民受け入れに抵抗が少ない一因であるかも知れないが、それよりも中世ヨーロッパの自由都市の市民意識に通じる、市民であることの誇りのようなものを感じる。 |