戦後ドイツ政治の歴史を大きく動かした少数政党FDPの党首
故ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー
ブログ管理人
故ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー(Hans-Dietrich Genscher)氏が去る3月31日に逝去した。彼の生前の功績を讃えご冥福をお祈りいたします。享年89歳であった。ドイツでは国葬を執り行うとしている。
ゲンシャー氏と言えば長年ドイツの副首相兼外相として東西冷戦の前線であったドイツの欧州内での地位の向上と東西冷戦の終結に政治生命を賭け東西ドイツ統合の悲願を達した立役者であった。
1969年ドイツ自民党(FDP)は議会第一党であったドイツ国民に絶大的な人気があったウィリー・ブラント率いるドイツ社民党(SPD)と連立政権を樹立し、ゲンシャーは内務大臣として入閣した。1972年のミュンヘン・オリンピック事件の収拾で手腕を発揮し、結果は死者を多数出す結果となったが、その責任感と指導力は国民の評価を得た。
1974年にシュミット率いるSPDとの連立で自らは副首相兼外相としさらに3人の閣僚をFDPから出している。1980年の連立政権で予算編成において、ばらまき型のSPD予算に反対し、4閣僚は辞任、国会では野党第一党のヘルムート・コール率いるCDU/CSUの内閣不信任に賛成票を投じ、シュミットを辞任に追い込みすぐさまCDU/CSUとFDPは連立内閣を作りコールを首相にFDPはゲンシャーを副首相兼外相他3閣僚を入閣させた。これはFDPの支持者の一部には不評で次の1983年の選挙では議席を大幅に減らしている。
1984年に欧米の閣僚としては初めて革命後のイランを訪問し、いち早くイランと欧州の関係の改善につとめた。1991年にはEU内の合意が無いままクロアチアとスロベニアの独立を認めドイツ独自の外交を進めている。
東西冷戦に終止符を打つ外交を欧州のリーダーシップをとって積極的に進め、ポーランドのワレサ議長の後ろ盾となって応援をした。悲願であった東西ドイツの統合後、旧東ドイツ国民の受け入れのための数々の困難にいや気がさしたドイツ国民から、東西統一を推進したFDPへの風当たりは強く党勢は著しく後退した。
1997年に健康上の理由で引退したが、18年間と言う長期にわたる外相は先進国中最長である。長年連立政権で組んだCDUのコールは引退後も自伝やインタビューでゲンシャーを褒めているが、ゲンシャーがコールについて触れる事は無かった。
連立政権にあっては少数党といえどもその力は大きい。1998年にはFDPに代わって緑の党が連立少数党としてSPDと連立を組んでいるが、やはり党首の
ヨシュカ・フィッシャーは副首相兼外相のポストと他に2人の閣僚を入閣させている。
ドイツ議会は議席数650程度で、第一党は常に過半数に少し満たない300前後で、連立少数党は40議席前後である。キャスティング・ボートを握っているのでその立場は強いので、重要閣僚のポストを取っている。また、連立協約は数千ページにも及ぶために選挙が終わった後も連立交渉に数カ月かかることは珍しくない。日本の連立協約はわずか数ページだと言われており少数党は多数党の言うなりになっているとの感を持つ。
日本の公明党は途中民主党政権時代の3年を除いて13年間自民党と連立を組んでいるが、閣僚は一人しか出せていないし発言権を持っているとは言えない。民主党政権と連立を組んでいたなら公明党の地位は相当に上がったと思う。まだまだ日本の議会制民主主義は熟成が足りない感じを持つのはブログ管理人だけだろうか。
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