壁は無くなって25年経ったいまもくっきりと残る東西の差
昨日の朝日新聞デジタル版に、「特派員レポート『統一ドイツは今』の余話」と言うカラムがありその挿絵に国際宇宙ステーションから見たベルリンの夜景が出ていた。
この宇宙からのベルリンを見ると黄色い光が輝く右半分と白い光が輝く左半分にくっきりと分かれている。記事によると、右の黄色い光は旧東ベルリンで左の白く光る方が旧西ベルリンで有ると言う。右の黄色は道路を照明しているのはナトリウム灯で左はLEDか蛍光灯あるいはガス灯だと言う。東西が分離されていた頃、西ベルリンは電力を全て東ドイツから買っていた。電力はいつ止められるか分からないとの恐怖から、石炭を西ドイツから運んで自前のガス供給設備を備えていた西ベルリンは、道路照明をガス灯で行う事を整備した結果西ベルリンの道路は殆どガス灯で照明されるようになったと言う。電力に心配の無かった東ベルリンでは、当時は最も発光効率が良いとされていたナトリウム灯(黄色い光を出し明視性に優れているとされ日本でも一時道路照明に多用された)が設備されていった。壁が崩壊して25年経った今も、この差が宇宙から見るとくっきりと見える。
これは、交通機関にも言える。旧東ベルリンには路面電車網が発達している。路面電車は本当に網目のように走っており、本当の市民の足のように使われている。東西が分断されていたころ、西ベルリンはモータリゼーションの波が押し寄せていた。個人が自動車を所有するのが当たり前の時代となり、路面電車は自動車交通の邪魔になるとの事でことごとく取り払われ、幹線だけが地下鉄や高架鉄道になった。幹線であるので、主要な場所には駅が有るが東の路面電車のように細かに行き届いていない。分断されていた頃東ベルリン市民には自家用車は、例のプラスティックボディーのトラバント(愛称トレビ―)だけで、大きさは日本の軽自動車以下で、価格は一人の年収の倍もしており、その上お金を払い込んでから車を受け取るまで数年掛かると言う程の「高嶺の花」であった。当然、市民の足は路面電車であった。その為に路面電車が発達した。この区分けも歴然で、旧東ベルリンには路面電車網、西ベルリンには地下鉄網とはっきりと分かれている。
現在の路面電車の停留所には全て電光表示版が有り、次に来る電車の行き先、到着時間が次の3本まで表示されている。最大の待ち時間は10分のようで、どの停留所でも10分以上の表示にはお目にかかることは無かった。電車は2両か3両繋ぎで、低床になっており乗降に段差はほとんどなくお年寄りにも優しい。車内には、自動切符販売機が一台必ず備え付けられており、切符なしで載った人はこれで買える。最低料金は1.2ユーロ(170円)である。車内にも表示が有り、次の駅と3つ先の駅までが表示され、それぞれ停留所での乗り換え路線番号が表示される。これも大変に親切である。ちなみに、旧西ベルリンの地下鉄の中にはLCDディスプレイがあるが、そこにはコマーシャル・ビデオが流れているだけで乗客の為の情報は無かった。中には文字ディスプレイで次の駅が示される車両もあるが、3つ先の駅までの表示は路面電車だけで見ることができた。
その他、目につくのは建築物で、旧東ベルリンの建築物は、直線的なデザインのオフィスビルであったり集合住宅である。東西分離が行われた後に都市計画が行われたらしく、幾何学的に計画された幅員の広い道路に路面電車の軌道がつけられその両側にビルが整然と無機質な感じで並んでいて、いかにも東ベルリンと思わせられる。旧西ベルリンでは街並みが第二次大戦前の石造りの建物を残す形で復興されたらしく、道路幅は狭く路面電車の軌道は外されている。不思議なのは、壁の崩壊後建てられたらしい、いかにも西側臭いショッピングモールのような建物や、ビジネスセンターのような建物のいくつかが、使われなくなって落書きがされ荒れ放題となっているのはどうしてなのだろうか。ホテルの従業員に聞いてもその理由は知らなかった。
ベルリンの五人に一人は外国人と言われるがそれは本当で、トルコ人をはじめポーランドやボスニアなどのスラブ系の言葉を話す人たちが多い。治安対策の為か深夜になると、警備会社の人と分かる制服を着て拳銃を腰に下げて大型の犬を連れた人たちが多く出てくる。たいていが若者で、2〜3人の男女でチームを組んでと言うより、徒党を組んでと言う方が近い感じで歩いている。見ていると、片っ端から職務質問らしきことをしている。自分たちが深夜の街の治安を守っていると言う使命感に燃えた青年たちかも知れないが、見ていて安心感より不安感に駆られてしまうのは何故だろうか。
ベルリンの壁が崩壊して25年経っても東西の差は今でもくっきりと残っていると思うのは旅行者だけであろうか。わざわざLED照明入りの白い風船を壁の有った位置に8000個もならべないと壁の存在が忘れられるからと、大イベントが行われたが、これは国際社会向けのプロパガンダでは無かったのか。 |